三州瓦、軽い瓦、防災瓦、太陽光発電と屋根工事は三州瓦窯元の神清へ。 | ||||||||
明治時代初期、実は三州瓦の生産量は日本一ではありませんでした。明治政府が統計をとった明治7年(1874)の『府県物産表』によると、1位は京都、2位愛媛、3位山口で、愛知県は4位にすぎませんでした。 それが急速に生産量を増やしてきたのは、新製品の開発と製造法の改良、量産化など近代のさまざまな努力とチャレンジの積み上げによるものです。例えば・・・ ●フランス瓦をいち早く 明治の初期、フランス人のジェラールという人が横浜でフランス瓦を製造していました。洋館には伝統的な日本の瓦は向かなかったからです。 これとは全く別に大正の初期、三州では高須金之助という人がフランス瓦を造るために工場を建設し製造に取りかかりました。しかしその直後に、洋瓦を造って海外に輸出しようという目的で株式会社を作るという計画が持ち上がり、彼もその会社に加わりました。 これは「日本洋瓦」という会社で、設立は大正6年(1917)、資本金100万円(今のお金にすると10億円くらい?)フランス人技師を技師長に招き、経営陣にもフランス人が加わった国際的な大会社です。フランス人技師長が過労のために早くに亡くなったと伝えられますから、色々たいへんだったようで、製品が市場に出たのは大正9年だったといいます。当初は製品が売れず、一時は解散寸前までいったものの、営業努力を続けるうちにフランス瓦の人気が上がり、やがて輸出も行われるようになりました。見習って近隣にもフランス瓦を造る窯元も増えて行きました。 なお、最初の企画者の高須金之助はしばらくして独立して別会社をおこし、洋瓦を造り続けています。 こうした歴史があるため、現在でも洋瓦の生産量は、全国でも三州が飛び抜けています。 ●S型瓦の開発 大正時代(1912〜1926年)、スペイン産のスパニッシュ瓦が輸入され、モダンな感じで流行しました。三州ではこの様式をいち早く取り入れ、さらに日本の風土にあったS型瓦を開発しました。大正末年のことです。その後、より葺きやすくするための改良がほどこされたので、今は形が変わっていますが、開発当初はS字型をしていました。 なお、S型瓦は今でも三州瓦の人気商品の一つです。 |
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